こんにちは、ライフコーチのSayaです。
突然ですが、私は、歩いていて周りに影響がないと思うときは、信号を無視することがあります。
以前は、今よりもきっちりと守っていました。
けれどある話を聞いて、「なるほど、確かに」と思って、以前よりも守らなくなりました。
信号を守らなくてもいいよ、と言いたいのではありません。
「あなたがもっているその信念・価値観は、なんのため?」
これを考えていただきたい、ということなんです。
信念の形成と習慣化
具体例がある方がわかりやすいため、歩いているときに信号をどれくらい守るか、についての私の信念をご紹介しますね。
「信念」がちょっと大袈裟と感じるならば、もうちょっと気軽な感じで、「価値観」でもいいです。
最近までの私は、歩きのときでも基本的に信号を守っていました。
夜遅くて、本当に誰もいないときは無視することもありましたが、日中は守っていました。
深いことを考えずに、信号を無意識に、反射的に守っていたような気がします。
思えば、学生時代はもっと無視していたかもしれません。
なんでだろう?と考えてみると、公務員になったときの記憶がよみがえりました。
「公務員はいつ誰に見られているかわからない。信号を無視したことが苦情につながったこともある」という話を入庁早々に聞き、新人の私は、「信号は無視しないようにしよう」と思ったんです。
マジで?と衝撃を受けたからよく覚えてる
当初は、仕事をしている間は信号は無視しないようにしようと考えていましたが、いつ誰に見られているかわからないとの思いから、プライベートも含め、いつの間にか習慣になっていたようです。
私の信念は、
「苦情の種になるようなことは極力しないようにしたい。だから仕事中、歩きのときでも信号は守る」
から始まり、
「歩きのときでも信号は守る」
にいつの間にか変わっていったのだと思います。
習慣化の良いところと、悪いところ
習慣化には、良いところと悪いところがあります。
良いところは、体が勝手に動いてくれるところ。楽ですよね。
悪いところは、習慣の元にある信念が不要になってからも、信念をもち続けてしまうところです。モヤモヤとした違和感の原因となります。
「歩きのときでも信号は守る」という信念は、私の場合、公務員を退職したら必要のないものでした。
けれど、良くも悪くも習慣化しているので、それに気がついていませんでした。
私は、昔から「車が来てないなら、信号無視してもいいじゃん」と思っていて、車がいないのに(+子どもなど、周囲に影響する心配がないとき)信号待ちをしている自分に、心のどこかで違和感を感じていたんですよね。
公務員のときは、「苦情を受けないため」と納得できていたのですが、公務員をやめた後は、納得できる材料がなくなっていました。
多少の違和感を感じながらも、信号を待てばいいだけで生活にそんなに大きな影響もないし、あまり深く考えずに体が勝手に反応するに任せていたわけです。
日本は信号守る人が多いしね
信念を変える
けれど、あるときを境に、考えを変えました。
きっかけは、「フランス人(もしかしたら別の国かもしれません)は、日本人がきっちりと信号を守ることに疑問を感じるらしい。自分で考える能力がないのか、と。」という話を聞いたこと。
「なるほど、確かにそうね」と思ったんですよね。
もういい大人で、自分で考え判断することができるわけだし、車が全然いないときに、律儀に信号を守る必要もなかろう、と。
しっくりと、腑に落ちました。
信号を守るか守らないかは、例としてあげただけなので、それをあなたに問いたいわけではありません。
あなたに問いたいのは、
「自分の行動(あるいは他者の行動)でモヤモヤすることはありますか?」
「モヤモヤするのは、あなたの中に、どんな信念があるからでしょうか?」
「その信念、どこから来ましたか?なんのために必要だったのでしょうか?」
「その信念、今もまだ必要ですか?」
「あなたが本当に望むことは、何ですか?」
「本当に望むことをするため、どうしますか?信念を書き換えますか?あるいは、書き換えないで対処する方法を探りますか?」
ということです。
昔からもっていた信念を振り返って、その原点を知ると、それだけで結構すっきりします。
その上で、今の自分と信念を作ったときの自分はちがう、だから手放そう、新しい信念に書き換えよう、と思えることもあります。(今回の私はこのパターン)
逆に、今もやっぱり必要だ、と思ってその信念をもち続けることに納得できる場合もあるでしょう。
一方で、不要だと思っても、なかなか簡単に手放せない場合もあります。
これが一番やっかいですね。
その場合、その信念から何か得ていることがあると考えられます。
たとえば今回の信号の例でいくと、
- 苦情の心配はもうないから、「歩きのときは、たとえ車が来なくても信号を守る」という信念はもう不要
- フランス人が信号を守る日本人を見て、自分で考える能力がないのか、と感じるのもわかる
- でも、信号を無視することにためらいを感じる
という場合です。
その理由が、信号を無視すると他人の目が気になる、だったとします。
その場合、「歩きのとき、たとえ車が来なくても信号を守る」という信念から得ているものは、「他人の目を気にする必要がない」ということになります。
モヤモヤしながらも昔からの信念をもち続けているのは、その信念によって理想どおり行動できていない一面があると同時に、得ているものもあるからなんですよね。
- 得ているものを、これからも得るには、どうしたらいいか
- モヤモヤの原因となっている信念を手放すのか、手放さないのか
- 信念を書き換えるならば、どのように書き換えるか
を考え、整理することができれば、納得のいく答えが見つかる可能性が高まりますよ。
まとめ
今回は、信念をなんのためにもっているのか、あらためて考えることについてお伝えしました。
信念にも、不要なものは手放し更新していくという、健康的な新陳代謝が必要です。
今回例にあげた「歩きでも信号を守るかどうか」に関する信念・価値観は、人生を大きく左右するようなものではありません。
でも、ものによっては、人生を大きく左右するんです。
たとえば、
「自分は世の中の役に立っていない、必要とされていない」
「自分は今の仕事以外なにもできない」
「好きなことを仕事にできるのは、才能がある人だけ」
「結婚は人生の墓場だ」
「お金を稼ぐことを考えるなんて、いやしい」
という信念・価値観をもっていたら、どうでしょうか。
人生に与える影響が大きくなるのは、想像に難くないと思います。
心の底から幸せだと思えるのならば、問題ありません。
でも、モヤモヤとした違和感を常に感じているのであれば、振り返る合図。
信念を書き換えるのか、納得した上でもち続けるのか、ぜひ考えていただきたいと思います。
もちろん、一人では難しいならば、サポートします。
ぜひ、コーチングをお試しくださいね。
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